MAAMItan’s blog

2022年9月以降8月に永眠した妻の遺稿をアップロードし、その後は妻がこの世に生きた証を残したい思いで引き継いでいます。

旅の思い出

2011年のゴールデンウイークは大分、熊本方面に行きました。5月2日の夜に南港からフェリーに乗って翌朝別府港に着きました。そこから最初の目的地の竹田市の佐藤義美記念館に行きました。佐藤義美さんは昭和の童謡詩人、童話作家で代表作は「犬のおまわりさん」と「グッドバイ」です。妻が絵を習っていた奥野北雄先生は若い頃に東京で佐藤義美さんと出会い様々なことを吸収されお世話になった人生の恩人だそうです。

奥野先生の略歴ですが戦後海軍除隊後は舞鶴中学に復学されました。朝鮮戦争の頃に佐世保におられて米兵の似顔絵書きで絵の勉強をする資金を貯められました。その頃、母校の中学の後輩だった二谷英明さんを佐世保に呼び寄せられ二谷さんは1954年に佐世保の放送局のアナウンサーになり1956年には日活に入社して俳優になられました。奥野先生が二谷さんをマスコミ、芸能の道を歩むきっかけを作ったわけです。佐世保に呼び寄せていなければ二谷さんは俳優になっていなかったかもしれません。そう考えると昭和30年代の石原裕次郎さん、小林旭さん主演の日活映画も違う人が相手役、脇役をやっていたことでしょうから違ったものになったかも知れません。人生どこでどう変わるかわかりません。

奥野先生はその後東京に行かれて猪熊源一郎さんの指導を受けられました。その頃に自由が丘に住まれていて飲み屋で佐藤義美さんと出会われ意気投合されて公私にわたって付き合いをされたとのことです。奥野先生からは佐藤義美さんとの逸話をいろいろ聞いています。佐藤義美さんは当時仕事のなかった奥野先生に出版社を紹介されて先生は本の挿絵の仕事を紹介してもらっていたそうです。「ぞうさん」等の作詞をされた詩人のまどみちおさんに出版社を紹介してもらい仕事をもらったそうです。(余談ですがぞうさんの作曲は父の実家の料理屋のお客さんだった團伊玖磨さんです。人のつながりってあるもんです。)その頃渋谷と新宿には売れない劇団員や芸術家がたむろして芸術論を交わす飲み屋(樽平とかとん平とかいう店名)があったそうでそこには画家の宮本三郎さんとか宇野重吉さんもこられていたそうです。

 

そういった話を聞いて佐藤義美記念館のことも聞いたので是非とも妻と行ってみようと話をしていました。その当時記念館には稗田さんという佐藤義美さんの秘書的な役割をしていた人がおられましたがこの日は不在でしたので改めて帰りに再訪することにしました。

      佐藤よしみ記念館
この後阿蘇山に行きました。僕は中学の修学旅行以来でしたが妻は初めてだったと思います。阿蘇山頂はあいにくの雨で霧も出て景色はよく見えませんでした。火口に居たときに硫化水素でしょうか、臭いにおいが立ち込めました。すると危険ですので直ちに下山してくださいとの警報が流れました。その時の様子が下の動画です。

                 妻避難中

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車内で話をしてますがせき込んでいます。この後はすぐホテルへ向かいました。

翌日は午前にカドリードミニオンに行きました。妻は天才志村動物園のパン君が好きでパン君が小さい頃からずっと見続けていたのです。それで一度実物に会いたいと言っていましてここに来るのも旅の目的でした。パン君はすでに大人になっていましたが宮沢劇場も観られて妻は満足していました。午後はもう一度阿蘇山火口に行き直しました。この日は晴れていてガスも治まっていました。

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この阿蘇の動画が期せずして妻の声が聴けて動く姿が見られる唯一の動画になってしまいました。youtubeに挙げることによっていつでもスマホで妻の声が聴けます。僕にとっては一生の宝です。

ここからは阿蘇雄大な景色を見ながらの快適なドライブを楽しみ熊本のホテルへ向かいました。

5日、佐藤義美記念館に再訪しました。稗田さんに会うことができました。その頃で90歳くらいだったと思いますが僕たちが奥野北雄さんの知り合いだと言ったらたいそう喜ばれてお昼ご飯をよばれました。今の奥野先生のことや昔の話を聞いてとても盛り上がりました。今でも行っておいてよかったと思います。

     食事したお店

稗田さんと別れた後、岡城や竹田の街を散策して最後の目的地別府のホテルへ向かいました。温泉でゆっくりした後、6日夜出航のフェリーに乗り7日朝大阪に戻りました。

妻との旅行で新婚旅行に次いでこの時の旅が印象深いです。彼女もそうに違いありません。この頃は本当に楽しかったです。