MAAMItan’s blog

2022年9月以降8月に永眠した妻の遺稿をアップロードし、その後は妻がこの世に生きた証を残したい思いで引き継いでいます。

阪神淡路大震災の記憶

今日で阪神淡路大震災から29年経ちました。早いもんです。

今年は元旦いきなり大地震が起こり最近はほとんど思い出すことがなかったあの大災害に対する記憶が蘇りました。

今迄、震災のことを文章にしたことがなかったので備忘録としてこのブログに書いておこうと思います。

今関西在住の33歳位以下の人が関西の人口の1/3位を占めると思いますがその人々は大震災を体験していないか記憶はないということになります。

大震災の話は実際に体験していない世代にとっては共感しにくいだろうと思います。

それは僕が子供の頃、戦争を知らない子供たちという歌が流行っていた時代、戦争を体験した大人たちが団塊の世代以下の戦争を体験していない世代に対して戦時中の話が通じないことから世代の違いを感じたように、さしずめ今なら生後ずっと関西で生活してきた阪神淡路大震災を知らない若年層に対して震災体験者が世代の違いを感じるようなものと同じ感覚でしょうか。

 

当時はマンションの3階で暮らしていましたが突然の大きな揺れに目を覚ましました。

目が覚める程の揺れ。

「何だ!」と思いました。

これはただ事ではないと。

直ぐにテレビを付けて神戸の方が震源だと知ったかと思います。

多くの電車が止まり通勤ができなくなっていましたが僕の利用していた私鉄は奇跡的に動いていて会社に行くことができました。

会社に着いて中に入ると壁に大きなひびが入っていて、自分の事務机の引き出しが全開になっていました。

凄い横揺れでした。

電話は通じないのでまともに仕事はできず、辛うじて会社の前の歩道にあった公衆電話は通じました。

その後、暫くして会社の商品を保管していたポートアイランドの倉庫が火災に見舞われているのをテレビで見ました。

当然商品は全焼しました。

地震の何日後だったでしょうか、当時僕は商品管理を担当していましたのでポートアイランドの火災現場の写真を撮りに港区の天保山から高速船に乗りポートアイランドへ行きました。

ポートアイランドは岸壁が崩れ、道路も凸凹になり地割れしている所もありました。

倉庫の管理棟は地盤沈下して取り付けれていた一階の鉄製階段が地表から浮いたようになっていました。

その後僕は火災による損害補償交渉を保険会社と行い、火災による損害は幸いにも保険でカバーできました。

あの震災では社内でも家族を失った人が2人いました。当時も突然命を失うことに対する理不尽さにやりきれない思いをしました。

でも今から思うと僕も当時はアラサーで周りの親族も祖父母以外は亡くなっておらず、身内を亡くすことの辛さ、悲しさを本当に理解できてなかったと思います。

悲しいかな、人生経験が未熟であったこともあり死別の辛さ悲しみといった遺族の心情を推し量ることができませんでした。

 

この先もいつ何時大地震があるか判りませんから自分でできる備えは怠ってはいけないと思います。