MAAMItan’s blog

2022年9月以降8月に永眠した妻の遺稿をアップロードし、その後は妻がこの世に生きた証を残したい思いで引き継いでいます。

結婚式

結婚式をどこでするか?これは色々考えました。出席していただく方は僕は京都市民が多く妻は八尾市民が多い、お互いの親戚が住んでる地域が違うのでどちらからも中間点で来やすい梅田にしようということになりウエスティンホテルとホテル阪急インターナショナルの二つが最後まで候補に残りました。新幹線で新大阪駅からタクシーで来やすいということでホテル阪急インターナショナルに決めました。披露宴の食事の試食もしましたが美味しかったですしね。

 

今改めて妻が結婚式の司会者の方に送った自己紹介の文章を記します。

2004年分から残っているヤフーメールに残してありました。

 

〇〇 真由美

八尾市内の産婦人科で1966年(昭和41年)8月29日 13時30分頃、体重3,200gで元気に生まれました。(当時、母22歳の専業主婦、 父24歳これから後に○○溶接工作所を経営です。父方祖父は、地元で小学校の先生をしていてから八尾市役所に勤めていました。父は、七人兄弟の四男です。)

母は、(肌の色が地黒なので)取り上げてくれた女医さんが「色の白い、お嬢ちゃんですよ。」と言うのを聞いて喜びました。

赤ん坊の頃は、よく泣き、たくさんおっぱいを飲んで、健康にすくすくと育ちました。

3才頃には、テレビから流行りの歌が流れるとテレビの前で帽子など小道具を取ってきて、そのアイドルと一緒に歌を歌って踊りを踊っては、父母に見せていました。

3才半頃に見たテレビドラマで、お城に居る綺麗な着物を着たお姫様に憧れ その後 大阪城に行く日には、お姫様に会えると上機嫌だったのですが、大阪城の中は普通のビルで書物などの展示物しかないのでとてもがっかりしていました。 

 5才下の弟ができるまでは、父と母の間で一人っ子の様に育って、少しわがままにもなりましたが、父と母からの愛情をたくさんもらいました。

 幼稚園から小学校低学年は、近所にいとこの男の子が居たこともあり、よく一緒に

ザリガニやカエルを取りに行っていました。好奇心が旺盛で自転車に乗っては、遠い友達の家までの道のりや、少しづつでも自分の知らない場所を探検しに出かけていました。(この頃、弟は母がみていたので私は、近所の小さい子の面倒というか遊んで、お家にも上がっておやつをもらって帰っていたことが何回かありました。最近(30才代に)までに、母が知らない人から声を掛けられ、「真由美ちゃん、お元気ですか?」と尋ねられることが何回かあったそうです。お話しを聞くとこの頃の遊んであげていた子のお母さんだそうで 

家に帰って来て「あんた、どこの人のお家まで行ってるのん!?恥ずかしいやん!」と言ってました。向こうの方は、私(真由美)の母だと知っているとの事でした。)

 小学生の時は、地区でソフトボールが盛んだったので友達に誘われて子供会のソフトボールチームに入り小学3年生から6年生までは、学校が終わってからよくグローブとバットを持ってソフトボールの練習に行って日焼けをしていました。

 小学生の頃は、学校に行く以外は、そろばんやピアノあとはソフトボールをするか、

友達とよく遊んでいました。

 幼稚園から中学まで同じ学年の友達たちだったのと、その学年の同級生に恵まれて授業中でも、とても楽しく過ごしました。中学は、風紀他に厳しかったのですがそれでも楽しく過ごせたのは、友達のお陰だと思います。その頃ついた呼び名は、○○の頭の「つ」から「つーさん」や「つー(つう)」といわれ、その後の高校生以降も 「つう」や「つーさん」と呼ばれています。(中学は、書道部に入っていました。)(結婚式に来ている友人が小学校から中学の友達2名、高校時代~の友人3名で5人ともにこの呼び名で呼ばれています。)

 母が探してくれた女子高校(東大谷高校)に進学し、女子高なのがむいていたのか

友達がたくさんでき楽しかったです。よく友達の家や、暇があれば 友達と出かけていました。(クラブは、フォークソング部や茶道部に入っていました。)

私の覚えていないような小さい頃(1才~3才)から中学生ぐらいまで毎年、家族旅行をしていました。私が高校生ぐらいになると参加していないこともあったかも知れませんが、父母は、国内のいろんなところへ連れて行ってくれました。大切な家族との思い出です。

 大谷女子短期大学被服学科に進学し、この頃は、短大の提出物(主に和裁・洋裁)に追われている日々でよく徹夜もしましたが、家の近くにテニスのクラブハウスがありそこで受付や併設されているレストランでのアルバイトをしていました。

 学校を卒業してからは、仕事と家の往復がほとんどです。 他にしていることが無かったので、幼なじみ(幼稚園から中学までの友達)に誘われてよく郊外にバーベーキューやスキーやテニスに連れて行かれることになりました。休みになると誘われて奈良や和歌山にもよく行ったと思います。

20歳代中ごろからは、一人、スポーツジムでエアロビクスをしたり、したことの無い

習い事を始めようと週一回の料理を始めました。花嫁修業と思って始めたのですが、なかなかお嫁に行く機会も無いのと、元々、物を作るのが好きだったので気が付いたら、その週一回の料理も4年ほど通ってしまっていました。(智史さんも家事をされますが、料理を少し勉強している分だけ智史さんよりできていてよかったです。)

スキーに行く友達も一人、二人と結婚を機に減っていく中、自分から始めたというよりも付き合いで始めたスキーが、気がつくとそのメンバー(幼なじみ)が居なくなっているのに、その友達のそのまた友達のつながりを見つけて、 なぜか40才になる最近まで年一回は、長野へスキーをしに行っていました。

 自立をしなければと思い30歳からは、一人暮らしもはじめ、今まで勉強のできなかった絵(洋画)の勉強を始めました。その頃から、仕事と家の往復と絵の勉強がメインでした。

今までにやって来た仕事内容は、主に企業の経理です。昭和62年に短大を卒業してから主に化学品メーカー・アイカ工業㈱の営業支店の経理3年。50人ほどの食品会社・  大阪削鰹㈱の会社全般の経理7年等を経て、30歳を過ぎて㈱スタッフサービスより派遣でユニバーサルスタジオ立ち上げ時の仕事、テイジングループ経理部のお仕事、現在の社会福祉法人のマリア保育園の立ち上げで仕事に来たことをきっかけに現在のマリア保育園で職員になっています。

 絵は元々好きで、高校生ぐらいから、一人でよく美術館に足を運んでは、好きな絵を色々と観ていたのですがその知識が生かされ いい先生を見つけることができました。

 30歳から、その先生の勧めも有り、その先生(プロの画家さん)に付いて、色々と絵画について勉強して現在に至るところです。

 今は、その勉強も理解ある智史さんに会うことができ、とてもよかったです。

 今まで行きたかった、絵描きさん達(たくさんの画家)が生活していたパリにも新婚旅行で一緒に行けるのが夢のようです。(元々、旅行が趣味の智史さんなのでこれからも、絵を描く為の旅行にでもついてきて頂けるとうれしいです。←<希望>) 

(将来は、智史さんのお仕事で国内はもとより、海外とのやりとりで機械等を輸出や輸入、営業もされているので 私の絵も国内外問わず、売っていただけると助かるなと思っています。そのためにも私も絵を描くことで一人立ちできるようにがんばります。もちろん、家事もがんばりますが・・・)

 二人で力を合わせてがんばっていきますので、皆さん応援を宜しくお願いいたします。

 

妻にとって夢と希望に溢れていた人生で一番幸せだった頃ですね、僕もそうでした。