MAAMItan’s blog

2022年9月以降8月に永眠した妻の遺稿をアップロードし、その後は妻がこの世に生きた証を残したい思いで引き継いでいます。

去年の8月16日退院後~24日と今日祥月命日

7月11日の入院から8月16日に退院したものの日に日に元気が無くなり20日土曜日、中心静脈栄養の面倒をみてもらう医院の先生が家に来ましたが先生との会話がおばあさんが話をしているような口ぶりになっていました。

そして翌21日には黄土色の痰を吐いていました。今から考えると既に感染症が進んでいたのでしょう。バルスオキシメーターは88とかになっていました。それでかかりつけ医にどうしたらいいか電話で聞いたら中心静脈栄養の点滴のピッチを上げてくださいと言われました。そして4時間くらいたったっ夜中1時過ぎに妻が嘔吐しました。これはピッチを上げたせいだと思ったので標準のピッチに戻し、僕は眠りにつきました。

 

そして22日翌朝、妻がしんどそうにしていてバルスオキシメーターも80台だったので8時に訪問看護の看護師さんに電話して大至急家に来てもらいました。

そして看護師さんが救急車を手配しました。救急車は直ぐに来ましたがなかなか出発しませんでした。行き先の病院を探していたのかもしれませんが僕の思いは妻のかかりつけ病院以外考えられませんでした。結局、かかりつけ病院に行けることになりましたが、家から病院まで道のりが長く感じられました。赤信号でも進んでいたのに。

病院に着いたのは10時過ぎだったと思います。そして妻は救急処置室へ連れていかれました。

しばらく僕は待合室で待った後、妻は感染症になったと聞かされました。感染経路は前からあった足の潰瘍傷か、腸からかどちらかは分からないということでした。

22日夜中1時過ぎ、嘔吐したときに妻は近日会う予定にしていたケアマネさんにメールを出そうとしていました。嘔吐して、苦しくて、意識も朦朧としていたのに。そのとき僕は妻の義理堅さ、生真面目さに心を打たれました。そういう人だとは分かっていましたがここまでとは。普通の人ならとてもそんなことはできないはずです。

 

妻が救急処置室へ連れて行かれて数時間後、医師から感染症になったことを聞かされた訳ですが僕はこの先家に帰れる可能性があるのか尋ねました。答えは「難しいと思います。」それを聞いて絶望しました。地獄の底に突き落とされたような衝撃。もう妻に会えないかも知れないと思い待合室で涙が溢れてきました。

7月初めに入院して数日後、担当医師から病状の説明がありました。その時言われたのが心臓が健常者の4割ぐらいしか働いていない。不測の事態が起こる可能性があり、それは一年以内か、2年後かは分からない、妻は延命治療はしないという書類にサインをしたということでした。これを聞いた時に眼の前が真っ暗になり、そんなに悪いのかと衝撃を受けました。そして大泣きしました。そのときのことがこの日受けた衝撃のクッションになってはいました。事前通告というか。でも別れの日がこんなに早く来るとは思いもしませんでした。

 

そして23日午前10時頃、病院から電話があり付き添いができるようにしましたから病院にきてくださいと言われました。僕は直ぐに昼食を食べて妻に見せる為にアイパッドで妻との思い出の写真を撮って大急ぎで車を飛ばして病院に向かいました。病院に3時前に着いたとき、妻は薬で意識はほとんどないように見えましたが看護師さんが「旦那さんが来られましたよ」と話しかけると目が開いて「んん」と声を出しました。それで持ってきた写真を見せて妻に語りかけました。薬によってこれ以降妻は眠ったようになりました。一晩中妻に付き添いました。短時間なら一人呼んでもよいと言われたので夜10時過ぎだったでしょうか、妻の弟を呼びました。弟は夜中3時過ぎに最期のお別れをして帰りました。その後妻は夜中4時15分過ぎに天に召されました。享年55歳、あと5日で56歳の誕生日でした。あのときは現実の出来事とは思えませんでした。なんか、自分に関する全てが終わってしまったように感じられました。それと共に11年間病を抱えて、5年前には障害認定二級になる程手足が不自由になりながらも常に前向きだった妻に労いの気持ちもありました。本当によくがんばりました。

 

あれから一年、今日、12回目の祥月命日を迎えました。この日、僕は朝から三年前の4月に手術した上顎の小唾液腺癌の経過観察の診察に行きました。舌で触って分かる位置にある癌でしたので小さいうちに見つけたということもあり、今は普通に暮らしています。丸三年過ぎたので今は4ヶ月に一回の通院です。最初、家の近所の耳鼻科で病院を三箇所紹介されましたが何かと都合がいいだろうかと思って妻が通院していた近くの病院に決めました。今日の診察が終わってから通院中の妻のホームグラウンドだった上本町まで歩きました。

 

妻が通院してたときは僕は仕事があるので車で送り迎えだけして病院内の移動は介護サービスの方に車椅子を押してもらっていました。葬儀が終わり、数日後、その介護サービスの方が家に焼香に来られたときに妻が「鰻が大好きでよく食べに行かれてました。」と言われました。二人で外に鰻を食べに行ったことはなかったけどスーパーでは月一ぐらい鰻を買って丼にして食べていました。そんな訳で昼食に妻が行っていたであろうお店で鰻を食べようと思ったのです。関東風の背開きの鰻、ふんわりとして美味しいかったです。妻も食べたかったに違いありません。「今日はおまえの代わりに食べにきたんやで。」